ナポレオニック(だけじゃないけど)についてさかんに発信されているDSSSM(松浦豊)さんが「1814年戦役で、セザンヌを経由する街道はなぜほとんど使用されなかったのか?」というブログを書かれていて、興味をひかれたのでちょっと調べてみました。
https://t.co/YPncypphsA
— DSSSM (@DSSSM00) December 13, 2024
1814年戦役で、セザンヌを経由する街道はなぜほとんど使用されなかったのか?
1814年戦役について調べていってるんですが、地図を見ている限りでは有用そうなセザンヌを経由する街道がほとんど使用されなかったことが気になってました。#Napoleonic pic.twitter.com/o8O10eAiaz
なんでパリへの最短経路であるセザンヌを経由する街道を使わなかったのか、という疑問を出されていたのですが、私が説明するよりもまずはブログをお読みいただいたほうが早いかと。
1814年戦役で、セザンヌを経由する街道はなぜほとんど使用されなかったのか?
自分はちょうど、金曜の夜なのに仕事が終わんねーっとビールをあおっていたところだったので、こういう趣味の調べものが進むこと進むこと。
1814戦役のドイツの古い地図を見つけたんですけど、Sezanneを通る道は明らかに細く描かれています。ちなみに1855年作成だそうで、この戦役の約40年後ですね。
やっぱこんな小道よりは主要街道を使ったほうが早かったんだろうなーと思ったんですけど、ドイツ側だけだと何なのでフランスの地図も探してみました。で、見つけたのがこれ。
この地図でも、Sezanneを通る道はChalonsからMeauxの道などに比べると細く描かれているように見えます。ちなみにこの地図は1888年作成のようです。
あと、上記のDSSSM(松浦豊)さんのブログで
「小パリ街道」「大パリ街道」について、『Special Study NR.7 1814 The Fall of Empire』は「プロイセン軍はそう呼んでいた」とP14の注に書いていますが、『Blucher:Scourge of Napoleon』他の資料では何の説明もなく地名として使われており、じゃあ有名なのかと思ってネットで検索するも、まったく引っかからないので全然分かりません(T_T)
って書かれていたので、なんか掘り出し物が見つかるかもと思って探してみたら、クラウゼヴィッツのÜbersicht des Feldzugs von 1814 in Frankreichで小パリ街道(kleine pariser Straße)という表現が出てきてました。ほかにも、1814年3月の戦いについて書かれたドイツ語の資料では「いわゆる小パリ街道」という表現が出てきてました。
おそらく、もともと大パリ街道(die große Pariser Straße)というのがあって、この戦役で(かどうかわかりませんが)もう一本の並行する街道が小パリ街道と呼ばれるようになったのではないかと。auf der alten und neuen Pariser Straße(古いほうと新しいほうのパリ街道で)という表現もありましたし。
Die große Pariser Straßeについては例えばこんなサイトを見つけました。
http://ingelheimer-geschichte.de/index.php?id=282
ここでは、マインツからメッツ、ヴェルダン、シャロンを通るって書いてありますね。
ドイツ西部の町についてのサイトで、„Die große Pariser Straße zieht durch das Städtchen und befördert Nahrung und Gewerb.“(大パリ街道はこの街を通り、食料や交易物資が運ばれた)なんて書かれているものもありました。
ということで、調べてみるといろいろとわかって面白いわー。でも仕事しなきゃ…。
2024年12月14日 追記
SNSで知り合った方が、1839年の道路図を挙げてくれました。
https://sbataille.berjisan66.com/sbataille_blog/2024/12/14/french-roadmap-19th/
やっぱりセザンヌを通る主要な道路は無かったようですね。
それと、仏国立図書館のサイトで1807年作成の1815版の地図を見つけました。セザンヌを通る道はRoutes de Communication、大パリ街道ほかはRoutes de Postes et de Messageries Impérialesとなっていて、この二つの違いはちゃんと調べていないんですが、後者は名前からして主要街道なんだと思います。
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