2025年11月7日金曜日

(幕間)ヴァッハウのオイゲン

 個人的に推しているオイゲンですが、これまで書いたようにWachauではフランス軍の攻勢をまともに食らうんですね。あ、オイゲンって言ってもドイツ海軍の重巡と違うからね。艦これのあのコ、とか思わないでね。

 Wachau1813が収録されているVaeVictis182号のヒストリカルノートでは、ドル―オの「砲兵突撃」に続くミュラの突撃がヴァッハウの戦いのクライマックス、みたいなことを述べていて、ミュラがオイゲンの戦列を突破した、なんて書いてます。オイゲンがあの戦いで苦境に陥ったのは間違いないんですけど、本人はどう思っているのか、オイゲンの回想録"Memoiren des Herzogs Eugen von Württemberg"を読んでみました。


 このヴァッハウの戦いはAARでも書いたようにまず連合軍の攻撃から始まりました。オイゲンは前進、ヴァッハウの村を占領します。でも、ナポレオンはすでに戦力を集中していた一方、わが軍はまだ集結していなかったのになんでシュワルツェンベルクは16日に総攻撃を命じたのか理解できない、なんてオイゲンは書いています。まあ戦いの後に書いてますからね、後知恵とか自分の都合のいいように記憶改善とかあるかもしれませんが、翌日には13万の増援が到着したというのに、とのことです。Wir halten uns hier jedoch an das Factum.って一言を入れているんですけど、「そんなIfを考えても仕方ない、実際に起こった戦いについて書く」みたいな感じですかね。なんていうか結構シュワルツェンベルクへの不満が伝わってきました。ところでこの時のナポレオンについて、リーグニッツのフリードリヒ大王のようにって書いていますけど、要は包囲するように集結する敵に対して、全力で敵の一軍に襲い掛かるってことみたいですね。

 ヴァッハウを占領して順調に攻撃が進んでいるように見えても、 erschien mir dies höchst verdächtig(自分には非常に疑問に思えた)ってコメントしています。で、

Plözlich enthüllte denn auch der Feind über 100 Kanonen zwischen Liebertwolkwiz und Wachau, die auch gleich 19 unserer Geschüze demontirten.

(突如、LiebertwolkwizとWachauの間から敵軍の100門以上の砲が砲撃をはじめ、瞬時のうちにわが軍の19門の砲は制圧された)

となって、そこから苦戦が始まります。自部隊の戦列が拘束され前進も後退もできず、しばらく友軍の砲撃なしに敵の凄まじい砲撃を絶えないといけなくなったそうです。この砲撃は

Es war für mich ein Seitenstück zur Schlacht von Borodino, aber in viel längerer Dauer.

(私にとってボロディノの戦いに匹敵するものだったが、あの戦いよりもずっと長く続いた)

 砲が到着したもののすぐに制圧され、近衛兵の砲兵ですらそうなりますが、

doch wir wichen nicht

(だが、我々は後退しなかった)

うーん、かっこいい。その結果、部隊の3分の2の兵が犠牲になったそうです。30年戦争のリュッツェンの戦いのグスタフ・アドルフのスウェーデン軍のように、なんて書いていますね。


 そして、

Um 1 Uhr Nachmittags wollte Napoleon dem Gefecht den Ausschlag geben.

(午後1時、ナポレオンは戦いに決着をつけようとした)

ナポレオンはLiebertwolkwizから攻撃させるとともに、マクドナルドで連合軍の右翼を包囲しようとします。

Auf mich fiel das Gewicht des bekannten großen Cavallerie-Angiffs. Mehrere Tausend Cuirassiere brachen in den Räumen zwischen meinen Bataillonsmassen durch.

(かの有名な騎兵の大群の攻撃が私に襲ってきた。数千の胸甲騎兵がわが大隊の間隙を突破していった)

この後も苦戦が描写されているんですが、連合軍の反撃はそれと比べると結構あっさりでした。まあ、オイゲンとしては意にそぐわない攻撃を命じられたうえにフランス軍の猛攻にさらされて、何とか持ちこたえるだけで精いっぱいでほかの部隊のことを詳しく描写する気持ちにはなれなかったのかもしれませんね。


 先述したように後知恵などもあるかと思いますが、実際に戦った指揮官の文章は面白いです。オイゲンの回想録はかなりの分量があるので、またナポレオニックのゲームをやって関連するところをつまみ読みしてみようと思います。

*************************************************

 ちなみに、"Russia Against Napoleon"ではこの時のオイゲンの苦境をこんな感じで書いています。

Casualties mounted quickly on both sides but especially among Eugen’s Russians on the bare slopes east of Wachau. Already by eleven o’clock most of Eugen’s artillery had been knocked out. There was nowhere to find cover and the French cavalry deployed east of Wachau were an additional threat to any infantry who broke formation. Rudolph von Friederich, the Prussian general staff historian, comments that ‘it took all the tenacity and contempt for death of the Russian soldiers and all the heroic courage of Duke Eugen to stand one’s ground in such a position’.

オイゲンは敵の砲撃の射程外に後退すべきだった、少なくとも兵を伏せさせるべきだったって論じている研究者もいるそうですが、But the prince could not just decamp and leave a hole in the allied line. Moreover, Russian troops (or Prussian and Austrian ones) were not trained to lie down in sight of enemy guns. Even Wellington’s infantry might have hesitated to do so on an open glacis with a mass of enemy cavalry nearby.って"Russia Against Napoleon"の筆者は書いていますね。ここからもオイゲンの置かれた状況がかなり厳しいものだったってことが伝わってきました。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿

Battle of Wada (Bushi Life #5) AAR part5

-Turn 7  The Wada restored their forces to full readiness. While the Bakufu had conducted a successful volley in the previous turn, it was t...