2024年12月20日金曜日

マーケット・ガーデン80周年なので読んでみた、『9月に雪なんて降らない』

 1944年9月17日の午後、アルンヘムに駐留していた独国防軍砲兵士官のJoseph Enthammer中尉は晴れわたった空を凝視していた。自分が目にしているものが信じられなかったのだ。上空には白い「雪」が漂っているように見えた。「ありえない」とその士官は思った。「9月に雪なんて絶対に降らない!」

 とまあ、いきなりある本からの引用で申し訳ないんですが、今年は1944年から80年。ということでノルマンディーやバルジの80周年ですね。そういえばうちにある本でパリの出版社から出されたのがあるんですけど、初版が1944年。え、パリ解放の前?後?と内容よりもそっちが気になってしまいましたよ。


 自分は最近あんまりWW2のゲームはやらないんですけど、SNSの知り合いで第二次世界大戦ものなんてスルーするでしょって思ってた方が、80周年だからか「Monty's Gamble:Market Garden」(MMP)をやり込まれていて、それに刺激されて興味が湧いてきたのがマーケット・ガーデン。

 マーケット・ガーデンと言ったらまずは映画「遠すぎた橋」が思い浮かびます。印象的なシーンが盛りだくさんなんですが、一番好きなのがこれ。

降伏を勧告されても「Nuts!」みたいな直截な言葉ではなく、イギリス人っぽい返しがなんとも。自分もマーケット・ガーデンのゲームをやるときはあのセリフ、言ってみたいなあ。

「Arnheim auslöschen」(アルンヘムを叩き潰せ)

いやそっちかい! ちなみにアルンヘムは当然ですがドイツ語で「アルンハイム」って言ってますね。


 この映画の原作は『遥かなる橋』ってタイトルで和訳も出ていたけど、今は結構なお値段がついていますね。と思っていたら、原著『A Brigde Too Far』がキンドルで数百円で売っていたので買ってみました。結構分量があるので拾い読みしたんですけど、いやー、いいわー。

 それはさておき、マーケット・ガーデンの80周年では各地で式典が催されたようですね。例えばこれ。

https://www.cwgc.org/liberation/arnhem/

「Out of ammunition. God save the king.」とか、泣けてくるじゃないですか。ちなみにこの言葉、『A Bridge Too Far』にも出てきます。

 80周年の記念グッズ的な物も出されたようです。

https://www.airborneshop.com/clothing/embroidered-clothing/operation-market-garden-80th-para


 と気分は盛り上がったんですが、いかんせんマーケット・ガーデンのゲームはコマンドマガジン74号付録の『マーケット・ガーデン作戦』しかやったことがないんですよね。しかもあれはたしか米英の空挺部隊の死闘というよりは、9月から11月にかけての西部戦線を巨視的に扱っていたんじゃなかったかな。で、もっとあの戦いについて知りたいと思って読んでみた本がこれ、『It Never Snows in September』。 タイトルに引かれて買ったんですけど、このブログ冒頭の引用はこの本の裏表紙に書かれていたもの。読みたくなりません? そういえば「It Never Snows」(MMP)というゲームもありますね。

 『It Never Snows in September』は「The German View of Market-Garden and the Battle of Arnhem, September 1944」という副題のとおり、ドイツ軍側から見たマーケット・ガーデン。筆者のRobert Kershaw自身、1973年からイギリスの空挺部隊に所属していて湾岸戦争やボスニアにも派遣されています。軍務で西ドイツに駐留していた1980年代後半に、マーケット・ガーデンの戦いに加わったドイツ兵の生存者たちにインタビューしていったそうですが、今じゃもうそんなこと無理ですよね。そういう意味では貴重な本かと。第10SS装甲師団の師団長だったHeinz Harmelは、煙草をくゆらせながら地図を広げて直接あの戦いについて語ってくれたそうです。

 フランスからの敗走でボロボロのドイツ軍が連合軍の大規模な空挺作戦と地上攻撃を受け、大急ぎで部隊をかき集めていた様子が如実に描かれています。空軍所属だったのにろくな訓練も受けないまま地上部隊として投入されたり、休暇で2年ぶりに故郷に戻っていた兵士が2時間後にはまた家族から引き離されたり、第一次世界大戦を経験した老兵まで徴集されたり。連合軍が降下した一帯には、フランスで被った大損害から再編成中だった第9SS装甲師団ホーエンシュタウフェンと第10SS装甲師団フルンツベルクが駐留していたのはよく知られていますが、第9SS装甲師団は装備を第10SS装甲師団に渡してドイツ本国に移動するところだったとか。でもまあ、この両師団はノルマンディーの前から敵の空挺降下作戦への対応をずっと訓練していたそうで、少しはドイツ軍に有利な要素があって読んでいてちょっとほっとしました。

 基本的にドイツ軍の状況が描かれているのですが、アルンヘムで奮戦した英第一空挺師団のジョン・フロスト中佐は何度か登場していました。このフロストは映画「遠すぎた橋」でアンソニー・ホプキンズが演じていましたね。赤い悪魔の奮戦はよく知られているかと思いますが、ほんと、ドイツ軍がずっと手を焼いているので早く降伏してくれって思ってしまいました。それだけでなく、この本は最初から最後までドイツ軍が苦戦した様子がこれでもかというぐらいずっと描かれていて、読んでいてちょっとしんどくなりました。ティーガーIIが登場したと思ったら、想定よりも効果がなかったなんて書かれているし。個々の兵士の証言や日記などが随所で引用されていて、臨場感があるだけにどれだけドイツ軍にとってこの戦いが厳しいものだったかが伝わってきました。

 でも最後の方でちょっとだけ、独軍がマーケット・ガーデンを失敗に終わらせた原因について分析していましたが。敵の空挺降下に対する素早い対応が挙げられていましたね。臨機応変に、使える輸送手段は何でも利用したそうで、薪で走る民間車両や消防車まで使ったとか。

 ということで、マーケット・ガーデンのゲームをどれか入手してプレイしたくなりましたよ。プレイするときにはもちろん、「9月に雪なんて絶対に降らない!」と言うと思います。連合軍側だったら、「We'd like to, but we can't accept your surrender. 」って傘を手に持ちながら言いたいなあ。

(この記事は「War-Gamers Advent Calendar 2024」に参加したもので、12月20日分です)






2024年12月17日火曜日

Ouvrons grand les wargames!

 (この記事は「War-Gamers Advent Calendar 2024」用に書きました。もともと12月20日にエントリーしていたんですが、16日と17日がずっと空いていて、主催のHarpoonArrowさんが責任感を持って執筆されるようだったので微力ながら慌てて書いてみた次第です。で、最初にお断りしておきますがビール飲んでいます。なのでちゃんと考えて書いたブログじゃありません。ウォーゲーム界のことをよく知らないのにこんなこと書きやがって、と思われる方がいても許して。) 


 いやー、今年も多くのウォーゲームが出ましたね。自分的に今年買ったもので一番気に入っているのはこれ。

 でもこれだけ多くの作品が出ると目移りしてしょうがないんですが、ウィリーさんの書かれた「師走に書いても鬼は笑うか?」というブログ記事でこういう指摘がありまして。


来年も日本を含め、シミュレーションゲーム界のゲーム出版ラッシュは続くと思われます。10年前でも、コマンド日本版にゲームジャーナルだけで年10作でした。近年はこれにバンザイマガジンが年4作程度加わってるので、日本の雑誌付録ゲームだけで月一プレイだと消化しきれない量になりました。これに海外ゲーム付雑誌の和訳のあるものが加わります。その上にボックスゲームはまた別枠で存在してます。プレイするゲームは可能な限り絞らないとプレイしきれない時代です。

(中略)

何度もプレイして研究してもらえるゲームなんて初見で引き込めた一握りの作品になるでしょう。自戒をこめて書くのですが、何度もプレイしなければおもしろさが伝わらないゲームは初見で捨てられちゃうのです。


 うーん、これは作り手としての問題意識もあると思うのですが、確かにプレイしきれない時代ですよね…。でもクリス・アンダーソンがロングテール理論を提唱して早20年、消費者が多種多様な商品にアクセスできるのは当たり前になっていますよね。ウォーゲームもその埒外にあるわけではなく、逆に多数の作品が出されるのをポジティブにとらえたほうが楽しいんじゃないかと個人的には思います。

 でもポジティブって具体的にどういうことよ、って話なんですけど、最近は出版数が増えているだけでなくテーマというか取り扱う時代・地域も多様化していますよね。日本ではWWⅡ以外はあんまりウケない、他に強いて言うならナポレオニック?みたいな印象が個人的にあるんですが、それもじわじわと変わってきているんじゃないでしょうか。例えば2017年のこのインタビューでは

日本での定番と言えば,戦国時代と東部戦線,太平洋戦争です。最近は日中戦争も意外とイケるテーマになりましたが,当時は厳しい状況でした。一方,米国では南北戦争と独立戦争が定番で,それらは日本市場でウケが悪い。

と書かれていましたが、南北戦争、いまは結構受け入れられていますよね。

 こういったウォーゲームの多様化は海外でも見られるようで、以前ブログでも紹介しましたがあるユーチューブ番組のホストが、最近はユニークな題材のゲームが出てきていて、バルジやスターリングラード以外のものをプレイしたいという新しい層が現れているって言っていました。


 実際、ウォーゲームではマイナーな中世を扱ったLevy&Campaignシリーズは続々と新作が出ていますし、19世紀半ばの会戦をシミュレートするLes Grandes Batailles du temps de Napoléon IIIシリーズは今年も一作でたうえに、ついにケーニヒグレーツも出されるようですし。


 で、この多様化っていうのが先日ジブセイルゲームズさんが書かれたブログ記事「ラストワンフィート:ウォーゲームの普及に関する話」の内容とリンクするんじゃないかと。というかリンクさせられたらいいなあという願望があるんですが。記事にはこんなことが書かれています。


決して少数でない“若い世代”が“男女を問わず”足を運んでくれます。その場限りになってしまう人が多数ではありますが、その後、毎回お会いすることになる若い世代もいらっしゃいます(さすがに少数ではありますが)。


 いやー、嬉しいなー。たぶんですけど、ジブセイルゲームズさんが書かれている若い層の方々が興味を持つウォーゲームは、WWⅡに限らないんじゃないかと。バルジやバルバロッサ、ミッドウェーといった、1960年代後半から1970年代前半生まれのウォーゲーマーの間における定番テーマ、いわば共通言語ですけど、それを当然のものとして共有せず、様々な時代や地域の戦いをフラットな目で見られるんじゃないかなあと。もしそうだとしたら、ウォーゲームの多様化はこういった若い層にアピールするんじゃないでしょうか。でもまったくのあて推量で、というかかなり願望はいっているんですけど、実際どうなんでしょうかね。


 なんてことを考えていると、


ぜひ即売会に自分のブースを構えられて“ラストワンフィート”の知見をされてはいかがでしょうか


 っていう一文がグサッと刺さってきて、いや、自分、売れるようなもの作れないし…と日和ってしまいました。それに辺鄙なところに住んでいるので即売会に参加する物理的ハードルが高いんですよね。東京に出るのに移動で丸一日消えてしまうんですよ。ははは…。


 でも先日女子大で授業をやる機会があって、授業のテーマが民族問題だったもんですから強引にでもウォーゲームを紹介できるのでは、と妄想を膨らましていたんですが。チキンな自分には無理でしたよ…。だって女子大生の集団にウォーゲーム紹介って、無理ゲーでしょ?! (こういった固定観念にとらわれていてはいけないとわかっているのですが)。それに、民族対立ではなく民族共生の話をしちゃったし。というかですね、ワンフィートどころか、リモート授業だったんで文字どおり生徒さんとの距離感がつかめなかったんですよね。でも何とか機会を見つけて、新しく出てきている層に接することはできないかなと思っています。そして中世に興味がある人がいればMen of Ironを熱く押したい!なんて夢想しています。


2024年12月13日金曜日

「1814年戦役で、セザンヌを経由する街道はなぜほとんど使用されなかったのか?」について

 ナポレオニック(だけじゃないけど)についてさかんに発信されているDSSSM(松浦豊)さんが「1814年戦役で、セザンヌを経由する街道はなぜほとんど使用されなかったのか?」というブログを書かれていて、興味をひかれたのでちょっと調べてみました。


なんでパリへの最短経路であるセザンヌを経由する街道を使わなかったのか、という疑問を出されていたのですが、私が説明するよりもまずはブログをお読みいただいたほうが早いかと。

1814年戦役で、セザンヌを経由する街道はなぜほとんど使用されなかったのか?


自分はちょうど、金曜の夜なのに仕事が終わんねーっとビールをあおっていたところだったので、こういう趣味の調べものが進むこと進むこと。

1814戦役のドイツの古い地図を見つけたんですけど、Sezanneを通る道は明らかに細く描かれています。ちなみに1855年作成だそうで、この戦役の約40年後ですね。


やっぱこんな小道よりは主要街道を使ったほうが早かったんだろうなーと思ったんですけど、ドイツ側だけだと何なのでフランスの地図も探してみました。で、見つけたのがこれ。

この地図でも、Sezanneを通る道はChalonsからMeauxの道などに比べると細く描かれているように見えます。ちなみにこの地図は1888年作成のようです。


あと、上記のDSSSM(松浦豊)さんのブログで

「小パリ街道」「大パリ街道」について、『Special Study NR.7 1814 The Fall of Empire』は「プロイセン軍はそう呼んでいた」とP14の注に書いていますが、『Blucher:Scourge of Napoleon』他の資料では何の説明もなく地名として使われており、じゃあ有名なのかと思ってネットで検索するも、まったく引っかからないので全然分かりません(T_T)

って書かれていたので、なんか掘り出し物が見つかるかもと思って探してみたら、クラウゼヴィッツのÜbersicht des Feldzugs von 1814 in Frankreichで小パリ街道(kleine pariser Straße)という表現が出てきてました。ほかにも、1814年3月の戦いについて書かれたドイツ語の資料では「いわゆる小パリ街道」という表現が出てきてました。

 おそらく、もともと大パリ街道(die große Pariser Straße)というのがあって、この戦役で(かどうかわかりませんが)もう一本の並行する街道が小パリ街道と呼ばれるようになったのではないかと。auf der alten und neuen Pariser Straße(古いほうと新しいほうのパリ街道で)という表現もありましたし。

 Die große Pariser Straßeについては例えばこんなサイトを見つけました。

http://ingelheimer-geschichte.de/index.php?id=282

ここでは、マインツからメッツ、ヴェルダン、シャロンを通るって書いてありますね。

ドイツ西部の町についてのサイトで、„Die große Pariser Straße zieht durch das Städtchen und befördert Nahrung und Gewerb.“(大パリ街道はこの街を通り、食料や交易物資が運ばれた)なんて書かれているものもありました。

https://www.rheinpfalz.de/lokal/kaiserslautern_artikel,-wei%C3%9F-blauer-au%C3%9Fenposten-_arid,565202.html


ということで、調べてみるといろいろとわかって面白いわー。でも仕事しなきゃ…。


2024年12月14日 追記

SNSで知り合った方が、1839年の道路図を挙げてくれました。

https://sbataille.berjisan66.com/sbataille_blog/2024/12/14/french-roadmap-19th/

やっぱりセザンヌを通る主要な道路は無かったようですね。


それと、仏国立図書館のサイトで1807年作成の1815版の地図を見つけました。セザンヌを通る道はRoutes de Communication、大パリ街道ほかはRoutes de Postes et de Messageries Impérialesとなっていて、この二つの違いはちゃんと調べていないんですが、後者は名前からして主要街道なんだと思います。



2024年12月2日月曜日

アンナ・コムネナが生きた時代を知る-『12世紀の地中海』

  12月2日はアンナ様の誕生日。ということでアンナ・コムネナ関連の本を読んでみました。アンナが活躍したのは12世紀ですが、『La Méditerranée au XIIe Siècle』はそのタイトルどおり12世紀の地中海世界についてまとめた本。この時代の地中海って面白いんですよね。中央部ではフランスから来たノルマン人が勢力を拡大して、東と西では十字軍にレコンキスタ。というか、この本の目次を見たほうが早いんですけど、まずは西欧キリスト教世界の拡大、ビザンツ帝国の衰退、分裂したイスラム世界って地中海の3つの文明について前半で説明していて、次に3つの地域での異文化の接触として、南伊のノルマン人、スペインのレコンキスタ、東方の十字軍という章立てになっています。こうして巨視的な感じでまとめてくれるとバラバラだった知識がすっきりつながって嬉しい。自分が大学受験で世界史の論述問題の勉強していた時、こういう本を知っていたらありがたかっただろうな―と思いました。

 この時代のビザンツと言えば、前世紀に東ではマンジケルトでけちょんけちょんに負けて、西ではノルマン人に領土を奪われるという踏んだり蹴ったりで、アンナ様のお父様が何とか立て直してますね。この本でもお父様のアレクシオス一世や、アンナ様の宿敵、じゃなかった弟のヨハネスは何度か触れられています。アンナ様についても当然書かれている…って思ったら、あれ、無い。え、アンナ様の名前が出て無いの? 見落としちゃったのかな…。まあ、この本ではビザンツはメインではないですし、書かれている内容もあんまり嬉しいものじゃないんですよね。「ビザンツ帝国の衰退」っていう章タイトルからしてそれがわかるんですが、その章の中には「ビザンツ帝国の政治的・軍事的危機」とか「ビザンツ帝国の経済的・社会的危機」といった節が立っていて、危機ばっかりじゃねえかと突っ込みたくなりました。いやまあ、ビザンツの歴史って危機の連続だったと言えばそうなんですけどね。

 12世紀の十字軍と言ったらウォーゲーマー的にはリチャード獅子心王とサラディンが知られていると思いますが、サラディンはしばしば寛容の精神を示したためキリスト教徒たちが勇敢な騎士像をサラディンに見出した、なんて書かれている一方で、リチャードはアッコンを陥落させたときに抵抗した兵士だけでなく女性や子供も処刑したことが触れられていますね。あと、以前AARを書いたアンティオキアサグラハスといった戦いも出てくるのがちょっと嬉しい。イベリア半島では1195年にAlarcosでキリスト教勢力が大敗するんですが、第二のサグラハスなんて書かれていました。たしかにサグラハスでもアルフォンソ六世がぼろ負けしてたもんね。それと、Levy&Campaignシリーズの「Almohavid」が扱う時期の前後の流れもわかるようになっています。

 『La Méditerranée au XIIe Siècle』では政治・軍事的なことだけでなく、この時代の文化的側面も解説してくれています。12世紀の地中海と言ったらいわゆる12世紀ルネサンスがありましたが、スペインでの様々な文献がアラビア語からラテン語に翻訳されたことが述べられています。あと、『昼も夜も彷徨え マイモニデス物語』っていう小説があって、主人公のマイモニデスは中世最大のユダヤ思想家ともいわれ、迫害などを避けスペインからエジプトまで亡命しサラディンの侍医になったりした人なんですけど、『La Méditerranée au XIIe Siècle』でもマイモニデスが出てきて、医学と哲学の面での功績が解説されていましたね。それとユダヤ人と言えば、十字軍でもっとも被害を受けたのがユダヤ人だって書かれていました。

 というわけで、12世紀の地中海世界のゲームがやりたくなってきましたよ。十字軍関連のものでもやってみるかな。でも会戦級ばかりで、広い地域を扱ういわゆる戦略級的なものは持っていないんだった。バラバラだった知識がすっきりつながったとか書いておきながら、活用できないじゃん…。

2024年11月30日土曜日

ブルゴーニュvsスイス Grandson 1476 - Epées et Hallebardes 1315-1476 (VV81) AAR part7

 ●第9ターン

 イニシアティブはブルゴーニュ軍がとった。両軍とも消耗しきっているこの終盤、やるかやられるかだ。シャルル・ル・テメレールが動かせるだけの兵をかき集めて攻撃。スイス軍は熾烈な射撃に耐えられず次々と敗走していく。これまでの激戦でスイス軍の多くは士気低下かつ疲労状態となっており、この状態でさらに士気低下の結果を受けると敗走してしまうのだ。このターンもシャルルが陣頭に立って白兵戦、Goldiのユニットを壊滅させた。マップ上方のCampobassoも奮戦、スイス軍右翼に追い打ちをかけた。


 このCampobassoはイタリア人で、Campobasso伯Nicola di Monforte、フランス語だとNicolas de Montfortと表記されるようだ。『Charles the Bold』ではCola de Monforteってなっていた。このGrandsonの戦いの翌年、シャルルが戦死したナンシーの戦いでは敵に寝返りブルゴーニュ軍の敗戦に貢献している。不利になったら臆面もなく味方を見捨てて敵側につくイタリア傭兵隊長コンドッティエーレっていう、自分が勝手に持っているイメージにピッタリである。『Charles the Bold』ではthe traitor Campobassoなんて書かれていた。たぶん、VaughanはCampobassoに怒ってるよね。


 マップ下方では両軍の死闘が続く。ブルゴーニュ軍Hochbergがわずかに残っている弓兵でEptingenの騎兵を壊滅させるも、スイス軍の攻撃で台地上からブルゴーニュ砲兵は掃討された。

 両軍ともに損害が蓄積していっているが、壊滅による勝利得点はスイス41,ブルゴーニュ32といまだスイスが有利。ブルゴーニュはConcise村を奪還したが、その5点を計算に入れてもスイス軍がまだ得点的には上回っている状況だ。次で最終ターン。ブルゴーニュ軍は最後の奮闘で得点差をひっくり返すことができるか。一方のスイス軍はボロボロの状態だが、なんとか敵の最後の攻撃をしのぐことができるか。


●第10ターン

 最終ターンである。射撃フェイズでマップ下方のFaucingy部隊に損害を与えたブルゴーニュ軍は、さらにイニシアティブも獲得。シャルルが全力で敵に追い打ちをかける。射撃によってScharnachtalのユニットが壊滅。シャルルが率いる精鋭騎兵が敗走しているFaucignyを背後から襲い壊滅させた。

 スイス軍は頼みの左翼(マップ下方)のFaucigny部隊も半壊し、ほとんど何もできず戦列を整えようとするのが精いっぱいである。ブルゴーニュ軍はCrèvecœur、Orange、Campobassoと各部隊が消耗しているスイス軍に白兵戦をしかけていった。

 そして戦いは終了。敵よりも勝利得点を7点以上獲得したほうが勝ちである。終盤の猛攻によって、壊滅や敗走ユニットによる得点でブルゴーニュ軍が3点上回った。さらにConcise村を確保していることで5点プラス。だがブルゴーニュ軍騎兵が攻撃できなかったターンが3つあり、それを差し引くとブルゴーニュ軍とスイス軍の得点差は5となって、引き分けに終わった。


 いやー、最後まで勝負がわからないいい戦いで両プレイヤーとも楽しめました。既述のようにスイス軍は戦力、兵質、兵種も優れているので白兵戦では優位に立つし、士気低下したり敗走しても兵質が高いので回復しやすい。それに士気ボーナス3という鬼のようなRedingもいるし。なのでブルゴーニュ軍は不利かと思いきや、今回は弓兵を有効に活用して互角以上の戦いができたんじゃないかな。le Téméraireなんてあんまりいい意味ではない呼び名をつけられたシャルルの汚名返上、といったところではないでしょうか。

2024年11月26日火曜日

(幕間その3)『Charles the Bold』 ― ブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールについて知りたくなって読んでみました

  またまた幕間なんですが、これまではブルゴーニュ全体についての書籍だったので、シャルル・ル・テメレールについての本もということで読んでみたのが『Charles the Bold』。筆者のRichard Vaughanは中世後期が専門の歴史家で、ヴァロア・ブルゴーニュ家について知りたかったらこの人の著作はまず読んどけ、という感じらしい。Vaughanはシャルル・ル・テメレールだけでなくヴァロア家のブルゴーニュ公4人ついてそれぞれ本を出してます。以前読んだ『L'Etat bourguignon』でも前書きのところでおすすめしていたな。でも、なぜかフランス語に訳されていないって書いてあったけど、なんでなんでしょうね。『Burgund』でも触れられていて、1970年代になってブルゴーニュの歴史を政治的文脈から離れて新しい資料の発見によって研究する流れが出てきたそうで、Vaughanは統治に関する文書を特に活用したって紹介していました。ちなみにVaughanは鳥類学者でもあるそうです。どういう経歴なんだ。まあとにかく、Vaughanはそれまでのシャルル・ル・テメレールのイメージを変え、より正確な形で描写しようとしたようです。猪突公とかとも訳されるLe Téméraireという呼び名にはネガティブなニュアンスがあるようだということは以前触れましたが、Vaughanはシャルルがseems to have been by no means over-ambitious, still less rash, conquerorとか、by no means rash in the sense of reckless, in spite of his nineteenth-century French nickname Téméraire: he was much too sensible or cautiousということを所々で書いて、シャルルはそんな無鉄砲じゃないよって伝えたいみたいですね。

 この本は1467年にシャルルの父であるブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンが死去したときから始まっていて、1477年のナンシーの戦いでシャルルが亡くなるまでを描いているんだけど、本文がペーパーバック版で430ページほどあるので結構いい勉強になりました。

 軍事的なことを結構書いているのが結構嬉しかったりします。おかげであの辺の地理も少しはわかるようになりました。シャルルがかかわった戦いとしてはLa guerre du Bien public(一般的になんて訳されてんの?公益同盟戦争?)とブルゴーニュ戦争が昔VaeVictis誌でゲームになっていて、両方ともL'or et l'acierシリーズですなんですけど、手に入んないだろうなあ。

 ブルゴーニュ軍での傭兵についても書かれていて、イタリアの兵に特にシャルルは頼っていたそう。イタリア兵はブルゴーニュ軍で占める比率が次第に高まったそうで、1472年の夏の対仏戦役でシャルルの軍にイタリア兵が実質的いなかった状態が終わり、Grandsonを含む1476年の対スイス戦役ではブルゴーニュ軍はイタリア兵が主力を占め、少なくとも指揮官レベルではそうだったということを書いています。そういえばシャルルから約150年後の30年戦争でも、ブルゴーニュ公国にあたる地域がスペイン回廊Spanische Straßeと呼ばれてイタリアからスペイン領ネーデルラントへの兵の供給路となっていたんじゃなかったかなあ。でもあの時はイタリア兵じゃなくてスペインからの兵でしたっけ。あと、ブルゴーニュ軍ではイタリア兵に次いでイングランドの兵が重用されたそうですね。

 Grandsonの戦いもこの本では数ページを割いて記述しています。この戦いのほんの3か月前、1475年12月はperhaps marks the high peak of Charles the Bold's political fortunes; the zenith of Burgundian power in Europa.なんてなことも書いていて、ほかの本でLa défaite inattendueとかeine überraschende Niederlageとか、Grandsonが思いがけない敗北って描写されていたのもよくわかりました。あと、AARを書いているゲームでユニット化されているScharnachtalやChâteau-Guyon、Campobassoといった名前もこの本で出てきて、ちょっと嬉しい。

 相変わらず知らないことだらけで勉強になりまくりだったんですけど、シャルル・ル・テメレールに興味があるんだったらかなりためになる本じゃないですかね。シャルルが活躍するであろうVaeVictisの「Les Guerres de Bourgogne 1474-1477」や「La Guerre du Bien Public 1465」を何とか手に入れてプレイしてみたいって思いましたよ。

2024年11月23日土曜日

ブルゴーニュvsスイス Grandson 1476 - Epées et Hallebardes 1315-1476 (VV81) AAR part6

 ●第8ターン

 このターンも両軍が射撃戦を展開。ブルゴーニュ軍の槍兵が砲撃で吹き飛び、砲兵も壊滅した。スイス軍も射撃を受けてマップ中央から上方にかけて兵力が消耗していった。

「でもさ、この時代の砲弾って炸裂しないんでしょ? 敵の撃ってきた弾を再利用できなかったのかな。ほら、テイラー・スイフトも歌ってるじゃん、I could build a castle out of all the bricks they threw at meって」

「いや、まったく文脈が違うだろ。つーか、強引すぎるだろ」

「everyday is like a battleって言ってるしさ、やっぱり戦いの絶えなかったこの時代のこと歌ってるんじゃない?」

「もういいから」


 このターン、イニシアティブをとったのはスイス軍だった。おっしゃ、チャンス。敵の右翼(マップ下方)に対応する余裕を与えずに攻撃し、中央ではScharnachtalが立て直すのだ。マップ下方でのFaucingnyの3ユニットによる攻撃はことごとく成功。特にFaucignyが陣頭に立って敵指揮官Orangeを猛攻、たまらずOrangeは敗走した。

 そしてScharnachtalがConcise村周辺で敵にプレッシャーをかけつつ、下方の台地上でEptingenの騎兵を動かし、砲兵の背後から壊滅させていく。この方面のブルゴーニュ軍右翼はFaucingnyの攻撃で弓兵がほとんど壊滅しているうえ、強力な砲撃ができる砲兵も背後からの攻撃には無力、さらには砲兵を守る槍兵にも事欠く状態で、やっとのことで戦列を維持している状態である。

 ブルゴーニュ軍はマップ上端では前ターンの指揮官の敗走で前線に取り残されているReding部隊を騎兵が攻撃、そして中央では激しい射撃を加える。次々と敗走していくスイス軍。ついにはConsiseを守っていたGoldiまでもが敗走してしまった。空になった村をすかさず槍兵が占領。そしてこれまで戦列の後ろで指揮をとっていたシャルル・ル・テメレールだったが、勝負どころとみて自ら騎兵を率いて敵総指揮官Scharnachtalに襲いかかる。槍兵も攻撃に加わって包囲攻撃、スイス兵は後方からの攻撃を受けても不利なDRMは生じないのだが、総指揮官同士の激突はシャルルに軍配が上がりスイス兵は壊滅、Scharnachtalはすんでのところで捕虜になるのを免れて味方のもとに逃げ去った。

 Au fil de l'épéeシリーズでは後方から攻撃されると+2DRMと結構不利になるのだが、Grandsonのシナリオでは無効となる。デザイナーによると、スイス兵はその方陣(formation en carré)で卓越していたそうだ。そのため、先述のとおりこのシナリオでは騎兵の突撃も無効になる。側面と背面も防御し騎兵の突撃に対抗するのにも有効なこの隊形は次第に発展してきたそうで、Epées et Hallebardes 1315-1476に含まれている三つのシナリオ、1315年のMorgarten、1386年のSempach、そして1476年のGrandsonでは対騎兵突撃や後方からの攻撃に関するDRMは次第にスイス兵有利になっている。

 ちなみにここで言われている方陣(formation en carré)って、Gewalthaufenのことだと思うんだよね。方陣を指す言葉としてGevierthaufenというのもありますが。以前紹介した『Militärgeschichte des Mittelarters』では、Grandsonの戦いについて、スイス兵は密集した隊形で戦ったって述べていて、in geschlossener Formation (Gewalthaufen) って言っている。ただ、Hans Delbrückの<<Geschichte der Kriegskunst, Band 3>>では、nicht bei der Vorhut, sondern bei dem Gewalthaufen(前衛ではなく主力に)と、この言葉を主力という意味で使っているみたい。Wikiでも冒頭ではそう説明している。でもすぐ後にDiese bildeten einen schützenden Rahmen um die restlichen Nahkämpfer mit ihren Hellebarden und anderen Waffen.(近接戦用の兵の周りに防御隊形を形成し、ハルバードやその他の武器を装備していた)と、隊形のことだと読めるような書いていていてどっちやねん、という感じなんですが。

 回復フェイズではブルゴーニュ軍右翼(マップ下方)の多くが回復。この方面では劣勢に立たされているので助かる。だがその正面のスイス軍Faucingyの部隊もすべて回復してしまった。次ターンの攻撃がおそろしい。


つづく

マーケット・ガーデン80周年なので読んでみた、『9月に雪なんて降らない』

 1944年9月17日の午後、アルンヘムに駐留していた独国防軍砲兵士官のJoseph Enthammer中尉は晴れわたった空を凝視していた。自分が目にしているものが信じられなかったのだ。 上空には 白い「雪」が漂っているように見えた。「ありえない」とその士官は思った。「9月に雪な...